国立遺伝学研究所ができるまで アーカイブ

遺伝研設立メンバーの写真(一部の方のみ)

 日本遺伝学会第1回大会の時の写真です。

 
 遺伝学会は最初育種学会から始まりました。改名(この言い方が正しいか?)して遺伝学会になりました。その後又育種学会が誕生しました。


 さて、以前も一度紹介しましたが今度は遺伝研設立運動に参加した博士を中心に紹介します。皆様かなり若いです。

 時は昭和3年。場所は九州帝国大学です。

 全体写真です。

第1回日本遺伝学会


 もちろん、写真の中心は寺尾博博士であります。静岡市の方です。陸羽132号を作出された方です。私が尊敬しております農学者の一人でございます。

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種無しスイカ試食会(遺伝学研究所設立運動)

 増井博士が三島の農家との会合から4日後の8月27日午後首相官邸で、片山総理を囲んで種無しスイカの試食会が開催されました。

 今ではおなじみの3倍体スイカの初舞台です。もちろん主人公は木原均博士です。私達農学を学んだものには木原博士は3倍体スイカ生みの親であります。

 
 この時の様子を篠遠喜人博士が記録から紹介します。

 この会見は有光次郎文部次官のおとりなしで、文部省からは、次官、中西勝治研究助成課長、こちらは木原均・増井清の両博士に篠遠が加わった。汗をふきながら入ってこられた首相は、はじめに、遺伝研の設立理由とお願いとをきいてくださった。そのあとで、木原博士はまずふつうのスイカを2つに割られた。たくさんの黒いタネが目に入った。つぎにもう1つの同じような大きさのスイカにナイフをいれて真っ二つになった。そこには美しい紅色の肉だけで黒いタネは1つもなかった。


 首相は、「ほーこれは科学の魔術だ!!!」と声をあげられた。

 「ふつうの魔術にはタネがあるが、科学の魔術にはタネがない」と、一同を笑わせながら、もなとなごやかに、この珍品を味わわれた。 (終)


 雑誌遺伝1巻2号に記事がありましたが増井博士が同席していると知らなかったのでコピーしてきませんでした。残念。


 さて、木原博士の3倍体スイカについて紹介します。
                        

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遺伝研予定地の農地問題をちょっと分析。

 三島の農民百人余と1年以上の騒動の舞台となりました遺伝研の予定地ですが、どのくらいの規模(面積)があったのでしょうか。

 農家の出身でないと面積についてはピンとこないかもしれません。100人もの農家がかかわってくるからさぞ広い面積であると思うかもしれません。

 さて、遺伝研予定地の規模はどのくらいであったのでしょうか、宮山平八郎事務官の記録から紹介します。


 敷地は全部で28,649坪、建物は総延坪が2,553坪、本館だけで1,240坪となっている。


 坪換算でありますが、基本的に農地は反部(300坪)、町部(3,000坪)で面積を表します。理由は、最低でも2反部ないと生活できないからです。(当時、もちろん出仕事もしている前提です)


 建物の建坪の規模が大きいのはやはり天下の中島航空機工場だけはあります。もちろんアメの航空機工場にはかなり劣りますが。・・・ちなみに静岡市に建設された三菱発動機工場(たしか発動機だと思います)は・・・登呂遺跡が発見されました!もちろん遺伝研の候補地にはなりませんでした。


 敷地面積からわかる事は・・・。

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遺伝研予定地の農地問題

 現在でも農地に何かが出来る時には必ずおきる問題です。この時は昭和22年です。あの現在でも尾を引く「農地解放」の時代です。

 今では考えられないかもしれませんが、この時解放を受ける方々の権利が異常に強く、(あちらが)気に入らないと地主が留置所にぶち込まれた時代です。


 竹中博士の記録です。
 この敷地は戦争末期に中島航空機株式会社が、軍の力で強制的に収用したものだから、元の所有者に開放されたいという運動が、かねて起りかかっていたのであった。そこでそれ等については県庁、市役所、文部省、商工省と密に連絡して手当てを行っていたのであったが、遂に8月23日、予算編成に当たって候補地視察に赴いた一行に対し、プラカードをもった農民100名ばかりが阻止運動を起こしたのであった。(後略)


 候補地視察に赴いた一行には増井清博士がおいででした。増井博士はこの時彼らと始めての話し合いを行います。遺伝研30年記念誌に記録があります。宮山平八郎事務官の記録と一緒に紹介します。


 現在とは時代が違います。つい2年前までドンパチをやっていたのです。反対運動を起こしている農民の何人かは戦地から帰ってきた者です。命のやりとりをしてきたものは迫力が違います。そういった100名を相手に増井博士他数名で話し合いに行かれたわけです。
 
 度胸がなくては学者は務まらない・・・のか。

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政府への働きかけ(遺伝学研究所設立運動)

 ようやく財団法人 遺伝学研究所ができました。雑誌『遺伝』の発刊も始まりだんだん設立運動にも弾みがついてきましたが・・・・何時の世もそううまくはいかないようです。


 この時の内閣は社会党片山内閣です。

 関係省庁、内閣、議会への働きかけが行われました。


 請願書の申請人は、遺伝学者61名、その他関係者7名。創立予算1億円、昭和23年度予算は5,000万円でした。


 しかし、文部省でも予算の件で行き詰まりました・・・。

 森戸文部大臣より重ねて諮問がありました。(ということは既に諮問されているわけです。私の持っている記録にはありません)

 内容は、

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普及雑誌 『遺伝』 発刊  昭和22年11月

 財団法人 遺伝学研究所の設立と共に発刊が決定されておりました、普及雑誌『遺伝』の創刊号です。現在も刊行されております。


 写真が記念すべき第1巻のコピーです。(本物は農獣医学部附属図書館蔵です。)


遺伝


 
 増井清博士が「遺伝」の刊行にあたって、と寄稿されております。ちょっと長いですが紹介します。
 一部コピーミスでかすれて読めない部分がありますがそこは飛ばします。今、また藤沢の農獣医学部図書館まで行く暇がないので・・・・。

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遺伝研誘致問題打ち合わせ会議・・・静岡市

 昭和22年1月、竹中博士は国立遺伝学研究所設立請願に関する事務を遺伝学会長増井清博士から懇望され、引き受けられました。

 これにより請願その他に関する事務が統一され、順次軌道に乗ってきた。

 と、竹中博士の記録にあります。

 
 宮山事務官の記録です。

 三島の候補地の折衝及び静岡市に対する交渉も活発に展開されていった。これらの仕事の立回りを引き受けて竹中さんが登場したのはそれから間もない事であった。例の引揚者を標榜した向う意気強い姿が2,3日おきには現れて、書類の調製その他連絡が促進された。


 竹中博士のおかげで、現在でも国立遺伝学研究所の設立にいたる記録を見ることができるわけです。当時でも竹中博士のお仕事は地味ながら非常に重要なお仕事でありましたことが分かります。


 さて、候補地は三島に決定いたしました。しかし、まだ静岡市でも会議が開かれております。その記録を紹介します。(竹中博士の記録です)

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財団法人 遺伝学研究所設立

 昭和22年4月28、29日の両日神戸にて4特の第16回会議を開き、財団法人遺伝学研究所設立を急ぐこと及び普及雑誌『遺伝』を発行するよう努力する事が決められた。
 (竹中博士の記録)


 5月末には設立が許可された。基本財産70万円(内20万円は中央馬事会より寄付されたものです)。

 この中央馬事会よりの寄付には、松村真一郎氏と増井清博士の努力によるところが大きかったようです。
 
 当時は、獣医学科卒業の方は馬産の関係に多く行かれたようです。松村氏は中央馬事会の会長を勤められた方。昭和22年緑風会所属の参議院議員として活躍されます。竹中博士の記録にも何度もお名前が出てまいります。増井博士も松村氏の尽力を30周年記念誌に書かれてます。


 終戦直後の物も金も無い中、干天の慈雨に等しい中央馬事会からの寄付でした。

 遺伝学研究所の意義に協力したと言うより、遺伝学研究所設立に携わる方々の人間(人柄)に助力されたのではないかと思えてきます。


 

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増井・佐々木両博士の三島講演会 昭和21年9月16日

 国立遺伝学研究所候補地の視察から数週間後、日本遺伝学会 静岡大会の2ヶ月前。

 昭和21年9月16日、増井清博士と佐々木清綱博士は三島市において畜産関係の講演会を行いました。この講演会がきっかけとなり、養賢堂の『畜産の研究』が発刊される事となりました。


 畜産の研究は昭和22年発刊されました。第1巻には佐々木博士の三島での講演記録であります、「日本の畜産とその将来」が掲載されております。

 増井博士の記事は「家畜を中心とする性の問題」です。この記事は5回に渡って掲載されておりますから、おそらく講演の内容とはちょっと関係ないのかもしれませんが。(内容がかなり難解です。農家を前にして話すには・・・。なのでおそらく鶏の育種についてお話されたと思います)

 性の研究(間性について)は増井博士が専門にされている分野です。日本農学会賞を受賞した研究が鶏の間性です。

 この時増井博士は、日本畜産学会の会長もされています。遺伝研候補地の三島の農家に少しでも遺伝研の必要性を肌で理解してもらおうと企画された講演会ではないでしょうか。

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寺尾博 博士の質問 (貴族院本会議) その2

 ずいぶん長い質問でした。これ読んでみないと分かりませんが、読んでみても分かりにくい文章です。コピーの文字がかすれて見難い上に旧字体を使っています。また、言い回しも(慣れてきましたが)なじみの無いもので・・・大変です。

 竹中博士が簡潔にまとめてくれております。


 寺尾博士の優生問題の調査研究には国立の研究所が必要ではないかとの質問に対し、河合厚相及び和田農相は国立遺伝学研究所の設立は望ましいと答えたが、田中文相は国家が学問的研究をすることは官僚が主体となることになる幣があるから、学者が研究主体となり、官僚は助成連絡にあたる方がよいではないかと答えた。


 田中文相は、田中耕太郎法学博士です。後に参議院議員となり緑風会に所属します。


 簡単に書いてある方が楽ですが・・・1次資料を挙げないと何か苦労しないで書いているようで・・・参考までに。

 長いです。質問も長いが答弁も長いです。事前に答弁書を作成しておかないとこんなに長く答弁できないと思いますが。


 
 竹中博士の記録によりますと、

 12月27日増井研究室(東大農学部畜産学教室)に増井・木原・古畑・和田の4博士と宮山事務官が集まり、第2回遺伝学研究所設立準備委員会を開いた。主として田中文部大臣の意見に対処してであった。また予算委員長竹田儀一氏の助言を参考にして議を練った。

 とあります。

 遺伝研30周年記念誌にあります増井博士の寄稿に田中文相の意見が出てきます。たぶん、同じ考えをお持ちだったのでしょう。

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寺尾博 博士の質問 (貴族院本会議)

 ようやくこの記事がかけます。

 順を追って書いていかないと何を書いているのかわからなくなるのが私の欠点で、やっと寺尾博博士を紹介する事できます。

 これまでも、おそらくこれからも寺尾博士のお名前は遺伝研(遺伝学)だけでなく、農学の分野でも取り上げられる事はほとんど無いでしょう。

 静岡市の生んだ最高の農学者(育種学)は寺尾博博士であります。浅学な私が調べた限りですが・・・現在においても寺尾博士に匹敵する方はおりません。(博士号をもっている方は沢山いるようですが)


 この時寺尾博士は農事試験場を退職され貴族院議員(現 参議院議員)となられました。会派は「緑風会」です。この遺伝研の影の協力者(言い方が・・・?)には緑風会所属の議員の方が幾名かおります。また、紹介します。

 
 時は、昭和21年11月29日 貴族院本会議です。議長は徳川家正公爵です。

 答弁する大臣は、河合良成厚生大臣、和田博雄農林大臣、そして田中耕太郎文部大臣です。

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第18回日本遺伝学会 静岡大会

 昭和21年11月 第18回日本遺伝学会大会が静岡市で行われました。この時の日本遺伝学会長はもちろん増井清博士です。


 静岡のどこで行われたのか不明です。遺伝研静岡候補地の視察は8月に行われました。わずか3ヵ月後の11月に静岡の戦災が復旧されているわけはありません。

 焼け残った市役所(現 旧館)を使用してのでしょうか。それとも静岡中学か高校の校舎を使用したのでしょうか。興味を持って日本遺伝学会誌のバックナンバーに目を通しましたが・・・、別にこれといって書かれていませんでした。

 竹中博士の記録です。
 幹事会において、国立遺伝学研究所設立についての今後の方針が討議され、昭和23年を期して実現するよう努力する。しかし万一を考えて、とりあえず財団法人の研究所を設立しようではないかということになった。


 宮山事務官の記録では、幹事会が開かれた旅館は「旅館 杉本」です。現在はありません。


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遺伝研候補地選定の条件

 遺伝研の候補地は

 善通寺第11師団跡地
 日光、伊香保、大宮の御料地
 静岡市郊外
 三島市中島飛行機谷田工場跡地

 でした。

 このうち特に誘致に熱心だったのは善通寺です。昭和21年5月22日に小熊博士宛に善通寺町長松浦慎吾氏が手紙を送っております。古里氏の記録では木原博士と共に善通寺師団跡地を視察に行かれております。

 
 しかし、静岡と三島が選ばれました。これには、小熊博士が3つの条件を挙げております。(5周年記念誌)

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遺伝研 静岡市の候補地

 昭和21年8月10日、増井清、田中義麿、木原均、古畑種基、和田文吾の5博士と古里氏は静岡駅に集合し、出迎えの市の職員の案内で宿舎に入る。翌11日には市長に面会し、市の郊外の敷地予定地を視察した。そして午後は三島に立ち寄り、花島周一氏の案内で谷田工場を視察した。


 と、竹中博士の記録に見えます。

 まだ、静岡大空襲で焼け野原になった中心街の再建ができておりませんでした。私の祖父の復員が昭和21年(何月か?)です。静岡駅から浅間さんが見えたといいます。ろくな建物が残っていなかったから市の宿舎に1泊されたと思います。

 当時の市長は宮崎通之助市長です。

 


 後に浜松フラワーパークの園長になられた古里和夫さんの記録を参考に書いていきます。(30周年記念誌)

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遺伝学研究所設立運動戦後の再起

 終戦と共に、我国文化再建の一翼として先ず遺伝学研究所を作るべであるとの運動が小熊捍博士の手紙によって開始され、文部当局においても熱意を以て遺伝学会に協力される気運となった。

 この小熊博士の手紙は宮山平八郎事務官の手記によりますと昭和20年11月17日付となっております。終戦後3ヶ月で活動が始まりました。


 幾つかの候補地が選ばれ、検討されました。

 善通寺第11師団跡地
 日光、伊香保、大宮の御料地
 静岡市郊外
 三島市中島飛行機谷田工場跡地

 
 昭和21年4月、日本遺伝学会に遺伝学研究所設立準備委員会ができ、この委員会の名をもって「遺伝学研究所設立についての依頼の件」を文部省に提出し、設立の趣旨及び計画案を述べた。(竹中博士の手記より9

 この時の日本遺伝学会長は増井清博士であります。

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小冊子 「国立遺伝学研究所設立の急務」

 この小冊子は、小熊捍博士が作成されたものです。20pの小冊子です。こちらは私も入手することが出来ませんでした。静岡県立図書館はもちろん大学図書館にも蔵書がありませんでした。唯一国立国会図書館にはありました。まだ、未見です。


 昭和14年、第12回日本遺伝学会の役員会において小熊博士が国立遺伝学研究所設立の緊要なるを説かれ、役員一同協力して、この設立に邁進する事を申し合わせた。


 同年12月、小熊博士はこの小冊子を作成し、議会の要人に設立の要を説かれました。特に笠井重治代議士は熱意を持って各方面に働きかけ、その結果議会の質問にまで進み、時の総理大臣 米内 光政予備役海軍大将より考慮するとの答弁を得た。

と、竹中博士は記録されております。


 しかしこの時期は、昭和12年に起った支那事変が泥沼化し日中戦争にまで発展しておりました。当時の首相近衛文麿の思慮の無い一言「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」の声明により終りの無い戦いへと邁進しました。軍事予算は青天井となり、他に振り向ける予算が縮小されました。陸軍の予算の半分は弾代として中国戦線に消えていきました。文人が終わらなくさせた戦いでした。上海陣地群突破戦で数千人の死傷者を出した静岡連隊の苦戦も報われなくなりました。

 
 貴重な人命と膨大な予算が中国大陸に吸い込まれていきました。

 国に予算無く、国民の心に余裕の無い状況でありましたが、小熊博士以下賛同された博士方は運動を続けました。

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国立遺伝学研究所ができるまで(第4特別委員会)

 遺伝学研究所設立の為の特別委員会が『第4特別委員会』です。

 これは、学術振興会の内につくられました。


 この略称「4特」のメンバーの記録が記念誌には無くかなり探しました。ようやく東畑精一博士編集の「日本農業発達史 第9巻」に記載がありましたので紹介します。


 
 始まりは、昭和13年の秋、人物は北海道帝国大学教授「小熊捍(まもる)博士」です。

 小熊博士は、学術振興会学術部次長でありました波多野員夫理事に、遺伝学の基礎的研究の重要性を強調してその了解を得、第7、第8及び第12の常設委員会のそれぞれの委員長、柴田桂太、坂口康蔵、岩住良治の3博士を歴訪され、遺伝学研究の特別委員会を作るべく奔走されました。


 この小熊博士の運動が、国立遺伝学研究所設立に向けての一番最初の活動でした。(まだ、この時には遺伝学研究所とは出ていませんが)

 
 この活動は、3年後の昭和16年4月に「第4特別委員会」として学術振興会内部に設立されました。内容は「遺伝の理論及びその応用」です。

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国立遺伝学研究所(三島遺伝研)が出来るまで

 「国立遺伝学研究所ができるまで」これは昭和34年4月23日、竹中要博士が遺伝学研究所10周年の記念特集としてまとめられたものです。

 竹中博士は、昭和22年1月に当時日本遺伝学会長でありました増井清博士より研究所設立嘆願の事務を懇望され引き受けられました。竹中博士はそのときの記録を基にこの記事を残されました。


 私が参考にした竹中博士の資料は、「創立25周年記念誌」に再収録されていたものです。

 また、多くの方が国立遺伝学研究所の設立に至るまでの苦労を書き残されております。

 当時、文部省大学学術局研究助成課 宮山平八郎事務官の記録。雑誌「遺伝」に寄稿されております。

 また、当時はよく創立記念がおこなわれたらしく、「創立5周年」、「創立30周年」と記念誌が発行されております。この2冊は三島市立図書館に所蔵されております。静岡県立図書館には「創立25周年記念誌」のみです。こちらにも当時の記録が良く残されております。

 
 これらの資料を基に、他の資料を付け加えて国立遺伝学研究所が出来るまでをまとめてみます。

 静岡の方必見です。静岡が舞台です。そして中心の博士の内2名が静岡市出身の方です。(正確に言えば安倍郡です)

 もちろん、お名前は「寺尾博 博士」、「増井清 博士」のお二人です。


 仕事の都合上、てきぱきかけませんがお付き合いください。遺伝研設立までの10年の苦労の記録です。


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