静岡の歴史・偉人と古書探求 アーカイブ

増井清博士の実家『満寿一酒造』

 満寿一酒造さんは明治41年に現在の静岡市葵区山崎に移転しました。現満寿一酒造の杜氏をされている増井浩二さんから伺いました。


 増井博士は明治20年9月14日生まれです。仙台2高へ進学されるまでの間、この小坂で過ごされました。昭和22年の著作『鶏の改良と繁殖』の前書きに書かれた話もこの小坂での話です。

 増井博士はヒナのオスメス判別技術であります初生雛鑑別の生みの親として有名でありますが、博士の御専門は動物遺伝学でありまして鶏の育種の方に強く関心をお持ちでした。


 満寿一の名前の由来は、増井家と市川家と2件で酒造業を始めた事から「ますいち」と言うようになったと祖父から聞きました。市川さんの方は現在でも小坂で酒屋を経営しております。(田舎の酒屋ですが・・・身内です)


 満寿一さんが山崎に移転された理由は、良質の水を求める為と聞いております。この研究熱心な姿勢は、確かに静岡産業史(正式な題名は失念しました)にも先代、先々代のお名前が見えますことでもわかります。この小坂伝統的な御大家の姿勢とも言えます。


 満寿一さんの跡地は現在は畑です。私の母親の世代の遊び場でした。私の世代ももちろんこの場所で遊びました。戦争ごっこやチャンバラがもっぱらです。(安定成長期世代です)

 また、増井博士の記事とともに紹介してまいります。


 
にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡(市)情報へ

関谷銘次郎連隊長(その2)

 橋本万平著 『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』。この本を拝見いたしましていろいろ面白い記事がたくさん書かれておりました。


 関谷銘次郎連隊長の事を紹介する前に、この方を紹介します。

 
 向坂兌さんです。この方と関谷博士はロンドンで一緒でした。向坂さんは法律の勉強で留学しましたが28歳で亡くなりました。

 この方の姉様が、名古屋大学第三代学長勝沼精藏博士の御祖母様であります。(山梨医大紀要 勝沼精藏先生の嘆息-杉浦重剛撰文「向阪兌之墓」-)より

 勝沼博士は静中で増井博士より3級上です。お生まれは兵庫県ですが静岡市でお育ちになりました。(当時も静岡市です)


 こう見ていきますと(こじつけに近いですが)静岡と縁のある方が集まってきました。


 さて、本題の関谷銘次郎連隊長の記録です。

続きを読む

橋本万平著 『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』

 静岡県立図書館にてこの本を借りてきました。(腰が悪くなった日です)


 丁度、県立大学の図書館から借りた本の期限が来たのでついでに借りました。


 関谷清景博士は関谷銘次郎連隊長のお兄様でいらっしゃいます。生誕の地の碑が地元の方の手により造られ現在にも残ります。この場所は関谷連隊長の生誕の場所でもあります。場所は岐阜県大垣駅のすぐそばです。


 関谷博士は東京帝国大学にて山川健次郎博士と同じ時期に教授を務めていらっしゃったようです。

 学士という言葉はこの明治の世に生まれた言葉でしょうが、関谷博士や山川博士の伝記を拝見しておりますと、正に学問の士(侍)の意味で作られたのではないかと思います。

 戦場ではなく研究に命をかけた侍であります。関谷家は兄弟で両方の方面で偉業をなしたと言えます。


 さて、その『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』の結びの部分の一部を紹介します。橋本万平さんがなぜ関谷博士の伝記をまとめる事になったのかわかります。

続きを読む

関谷銘次郎大佐のお兄様は・・・関谷清景博士!

 関谷銘次郎連隊長の資料を調査しておりますが、私随分そそっかしい男でして目を通していて紹介する事を忘れておりました。


 関谷連隊長の銅像の碑文です。現在実物は静岡の沓谷にあります陸軍墓地に現存します。この碑文の写しが「歩兵第34連隊史」に記載されておりました。


 この文章の中に関谷連隊長の御家族の事が記載されております。関谷連隊長は岐阜県大垣市の御出身です。


 お父様は、岐阜県士族関谷玄助氏

 お兄様は、世界初の地震学者、理学博士関谷清景。
 岐阜県の偉人として紹介されております。また、wikiにも紹介されております。
 リンクです。
 公報おおがき
 WIKIです。

 国立科学博物館地震資料室


 関谷博士は明治29年結核の為亡くなりました。 関谷博士の伝記『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』と言う書籍があります。静岡県立図書館にありますので読んでみます。(静岡大学にはありません・・・念のため)

 wikiの関谷博士の記事には、関谷銘次郎大佐の事は何も書かれておりませんでした。詳しい理由は分かりませんが・・・(軍人と言う理由でしょうか)


 関谷銘次郎連隊長の碑文は銅像の件と一緒に紹介します。


やまひこ農園TOPページへ

 是非!、私の写真をクリックしてください。ブログランキングに参加しております。

にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡(市)情報へ

 日露戦争に関係するブログ記事へのリンクです。関心のある方はどうぞ。

にほんブログ村 トラコミュ 日露戦争へ
日露戦争

常昌院に安置される日露戦争勇士の木像

 本日、やまひこ農園の野菜を放射能検査にだすため珍しく焼津に行きました。


 帰りに、日露戦争の英霊を木像にして祭ってあります岡部の常昌院に向いました。


 「ああ、静岡連隊」にも記事がありましたが、関谷銘次郎連隊長以下227柱の立像が安置されているとの事。(こちらの旧地名で志太郡の地域の戦死者を1体1体の木像に名前を書いて祭ってあります)


 こちらが常昌院です。

常昌院


 曹洞宗のお寺です。

続きを読む

石川千代松博士の幕末  『人間不滅』より

 石川千代松先生がご自身の幼少期の頃を書き残してくれております。

 著書は、『人間不滅』昭和4年5月7日発行です。

 これです。

人間不滅


 石川先生のお父様は勝海舟先生と幼馴染であったそうです。石川先生も勝海舟先生とお知り合いであったようです。ただ、勝先生は駿府(静岡市)に移住されましたが、石川博士は沼津に移住されました。どう違うのか不明ですがそのようです。


 石川博士は幼少期に修羅場をくぐっております。時は幕末、位は武士。どちらにしても平民とは胆のすえ方が異なるようです。この時石川先生僅か9歳です。

続きを読む

遺伝研設立メンバーの写真(一部の方のみ)

 日本遺伝学会第1回大会の時の写真です。

 
 遺伝学会は最初育種学会から始まりました。改名(この言い方が正しいか?)して遺伝学会になりました。その後又育種学会が誕生しました。


 さて、以前も一度紹介しましたが今度は遺伝研設立運動に参加した博士を中心に紹介します。皆様かなり若いです。

 時は昭和3年。場所は九州帝国大学です。

 全体写真です。

第1回日本遺伝学会


 もちろん、写真の中心は寺尾博博士であります。静岡市の方です。陸羽132号を作出された方です。私が尊敬しております農学者の一人でございます。

続きを読む

『雌雄鑑別手ほどき』・・・古書紹介

 鶏の雌雄鑑別といえば、増井清博士です。

 ・・・・。別に博士の地元だからといって増井博士を紹介しているだけではありません。増井博士を通して博士と共にご苦労されてきた方々を紹介する目的もございます。これが駿河の文化であり、そして博士の地元小坂の文化でございます。


 この雌雄鑑別(初生雛鑑別)技術は数少ない日本独自の技術です。人間の持つ感覚を利用する技術であります。外国人(ギャージン)には真似できない技術でもあります。現在の養鶏界ではすでに主流から外れたようですがこの本が書かれたときは世界中の注目を集めた栄光の時でした。

 これが初生雛鑑別師の為に作られた本です。昭和15年発行です。

雌雄鑑別手ほどき


 文字が右から左です。時代を感じさせます。

続きを読む

『土壌肥沃度論』より作物の養分吸収について

 私が今まで目にしてきた土壌学の書籍の中でベスト10に入る一冊がこの『土壌肥沃度論』です。

 
 もう退官されましたが、北海道大学の岡島秀夫教授の著作です。

 目から鱗が落ちるというたとえがよく理解できました。私がこの本を読んだのは十何年前ですが、大学の図書館ではなく静岡県立図書館から借りて読みました。

 ・・・・そうです、既に絶版でありました。岡島先生の『土の構造と機能は』幸い本屋にありましたのでそのとき求めました。『土壌肥沃度論』はその後古本屋を探して手に入れました。

 農業を行う方は『土壌肥沃度論』を読んで損はありません。有機肥料だ、化成肥料だとか論ずる前にこの本を御覧ください。

 植物の養分吸収の基本は、です。単純ですがこれが重要であります。言い方を変えれば、このことが理解できなくては施肥の方法なんて分かるわけがありません。

 農家必見のこの本から一部紹介します。(なぜ、絶版になったんだ!)
 作物の養分吸収についてです。

続きを読む

家畜改良と遺伝学

 雑誌『遺伝』の1巻に収録されております。増井清博士の文です。

 昭和22年に書かれました。この年に出版されました増井博士の著書『鶏の改良と繁殖』にも異なる書き方ですが同じ内容の事が述べられております。


 まだ、国立遺伝学研究所が設立される前です。遺伝学研究所の必要性が説かれ、そしてモデルにイギリスの動物遺伝育種研究所を挙げておられます。(もちろん動物の遺伝育種に関してですが)


 研究に独創性(オリジナリティ)が重要であることは昔からのようです。しかし、実際そうでなかったのも昔からのようです。


 戦争に敗れた後、博士にとって反省される点はその独創性であったのかもしれません。
 
 皮肉な話です。増井博士のように独創性にみちた研究をされた方は日本には数えるほどしかないのですから。

続きを読む

陸羽132号の記念碑除幕(昭和14年7月11日)

 この記事は、養賢堂『農業及び園芸』14巻10号にあります。

 当時秋田県農事試験場の大黒富治さんの文です。大黒さんはwikiにも記事があります。歌人でもあつたようです。


 秋田県由利郡農会の農民が行った陸羽132号育成者への感謝祭です。

 育成者は、寺尾博博士と仁部富之助氏の2名です。

 そして、当時の農事試験場場長であります安藤広太郎博士も主賓の筆頭で招かれております。(安藤博士は陸羽132号作出に古在博士と共に支援されました)


 現在のコシヒカリの先祖になります陸羽132号、そして日本で初めて純系淘汰法を用いられ育種された学問的にも特筆される品種です。


 もちろんこの感謝祭は農家に利するところが大きかったからこそです。寺尾博士は自らの名を残さず実を残された方であります。(静岡でも知らない方が多いでしょうから)・・・私も偉そうには言えません。なんせ増井博士を調べていて寺尾博士が静岡の方だと知ったのですから。

続きを読む

おしっこからオーキシンの造り方(簡略法)

 あまりおしっこの話を書くのはどうかと思われるところですが、農業は不要な物を有用なものに変え利用するところがあります。

 ・・・といいますかそうでなくては経営が成立たないものであります。(この点理解されづらい)


 さて、この方法は小清水卓二先生の書かれた『植物成長ホルモン』です。昭和19年1月20日発行です。静岡県立図書館にあります。

 たしか小清水先生は奈良にある学校の教授をされておられたと思います。


 この方法は昭和17年に由里、中田、四方の3氏により開発されました。

 オーキシン含有シロップを作る非常に簡単な方法です。(昔はどこもぼっとん便所ですからね)

続きを読む

おしっこからオーキシンの造り方

 住木諭介博士の著書『植物ホルモン』からです。

 おしっこからオーキシンの造り方は他にも、小清水卓二先生の『植物生長ホルモン』(昭和19年1月20発行)でも紹介されております。こちらの方が簡易的な方法です。


 もしかすると今後輸入が途絶して農業用資材が入手できなくなった時の事を考えてオーキシンの造り方を記載しておきます。(なーんて・・・冗談です)

 性ホルモンは妊婦尿を原料とするようですが、成長ホルモンは妊婦尿と常尿(ふつうの尿の事だと思います)どちらも同じ結果が見られたとあります。・・・・妊婦尿では採取するのに非常な困難に直面する事からこのようにあえて記載されているのでしょうか。


 又、時代の流れと言うものがありまして、ここに出てくる、オーキシンa、オーキシンbは現在では存在しないものであります。ヘテロオーキシンは現在我々が知る「インドール酢酸」です。・・・多分上記3種類はインドール酢酸の事ではないかと考えています。


 まあ、効果が出ればよいのです。しかし、尿を煮詰めると大変です。西川哲三郎博士の記録に、体中に臭いがしみついて取れないとあります。

 当節、はやらない方法です。ご注意を。

続きを読む

住木諭介著『植物ホルモン』 昭和17年4月

 住木諭介博士のお名前は農芸化学を専攻した者は必ず耳にしたことがあります。(最近の学生は不明ですが)

 
 日本が世界に先駆けて発見、実用化にこぎつけた植物ホルモン『ジベレリン』(この時はギベレリンと呼ばれていました)、の発見者の一人です。

 もうお一方は、もちろん薮田貞治郎博士です。

 薮田博士は鈴木梅太郎博士と共に理研で研究され、戦後名古屋大学農学部の設立に増井博士と共に尽力されました。その後、増井家禽育種研究所の理事も勤められました。


 
 紹介します、住木博士の『植物ホルモン』は、私が調べた限り日本で一番最初に発行された植物ホルモンに関する専門書ではないかと思います。

 先ずは序文の紹介からです。住木博士はこの植物ホルモンの著述に関して、玉利勤治郎学士(当時)の助力が大きく玉利学士の著作であるとまで書いておられます。

 玉利博士は、平成17年2月13日に逝去されました。(享年94歳)

 

続きを読む

寺尾博博士の紹介と 著書 『農の理法』 

 静岡市(駿河)が生んだこれまでの農学者の中で最高の方が寺尾博博士であります。


 寺尾博(てらお ひろし)博士の紹介

 聖一色のお生まれで静中より一高、東大農学部に進学されました。東大御卒業後、農事試験場に奉職し場長(第4代)まで務められました。

 東北地方の冷害対策に努力され、陸羽132号の作出、水稲冷害の生理学的研究では学士院賞が与えられました。

 戦後、参議院議員(緑風会)として農政、国立遺伝学研究所の設立に携わりました。その後、電力の農業利用に関しての事業に関係しました。

 昭和29年頃、増井清博士に助言され増井家禽育種研究所の設立のきっかけになりました。増井家禽育種研究所には、寺尾博士は亡くなるまで関係されました。

 昭和36年に逝去されました。享年77歳。今年で50年になります。

 
 

続きを読む

『思い出す8月31日』・・・その5 市川紀元二中尉の最後 (静岡新聞記事)

 首山堡一番乗りの英雄市川紀元二中尉。

 静岡34連隊を始め多くの連隊が5割以上の死傷者をだしている中、奇跡的に無傷で首山堡南方陣地に日章旗を掲げました。・・・この時静岡連隊には敵の逆襲、砲弾(味方の砲弾にも)の雨にさらされていました。ロシア軍の関心は34連隊第1大隊に向けられていました。この隙を看破した突撃でした。

 
市川紀元二


 その市川中尉も遂に最後の時を迎えることになりました。日露戦争最後の決戦、奉天の戦いです。
 満州軍の参謀(井口、松川)が計画した片翼包囲作戦(結果として)。ものの見事にクロパトキン将軍に見抜かれ弱点であります、日本軍左翼第3軍と中央第2軍の結合点を衝かれました。
 激戦の場所は、于洪屯、三軒屋です。

 遼陽、沙河の会戦で被害が大きかった第3師団はこの戦いが始まる時、予備隊でありましたが前線に向かい、殺到してくるロシア軍の大部隊を迎え撃ちます。ここの突破を許せば、中央突破をされるということです。

 全世界の目が向けられているこの決戦、乃木第3軍がクロパトキン本営を落すまでの間、第3師団はこの場所を(文字通り)死守しなくてはなりませんでした。この激戦の中心にいた部隊は、第3師団隷下、第33連隊、第6連隊でした。

 市川紀元二中尉はこの重要な戦いの中戦死されました。

続きを読む

『思い出す8月31日』・・・その4 市川紀元二中尉 (静岡新聞記事)

 本日は8月31日です。首山堡陥落の日とともに関谷銘次郎連隊長、橘周太大隊長以下静岡34連隊約500名の命日であります。


 本日の記事の主人公は市川紀元二中尉です。(この時は少尉です)

 静岡34連隊が奮戦空しく首山堡をロシア兵の手に委ねました、その後名古屋6連隊に属する市川紀元二少尉率いる小隊が奪取しました。

市川紀元二少尉

 
 ロシア軍の計画的な撤退が背景にあるようです。しかし、静岡連隊の奮戦も無駄なものではなく、首山堡陣地群をあくまで日本軍を引付けるおとり(言い方がわからないので)として考えていたロシア軍も一時的とはいえ橘大隊に首山堡の重要拠点を早期に奪取されてしまったのですから、他の方面に向わせる部隊を首山堡に廻さなくてはならなくなつてしまいました。その数、2万といわれています。

 ロシア軍1個師団が静岡34連隊の奮戦に逆にこちらの方面に足止めされてしまったというところでしょう。(負ければ完全に悲劇でした)

 この激戦を栄光にかえた方こそ遠州出身の市川紀元二中尉でありました。

続きを読む

石川千代松著 『人間』  昭和3年版 p442~p459

『停年に際し私が急に職を辞せざる理由』(古在帝大総長に提出したる文章の写)

 停年に際し私が急に職を辞せざる理由


 私は先般来川瀬農学部長より停年になったから辞職願いを出せと勧められている。勧められるまでもなく私は満60歳になった昨年既に辞表を出したのだ。然るに宛名が違うとて却下された。其の内佐々木、勝島両教授の辞職があり、勝島君の事は別に論じないが、佐々木君の辞職は、私をして前に急いで辞職願いを出したことを寧ろ大いに悔ゆるに至らしめた。故に私は軽々しく辞表を提出することは見合せたいと思う。一身上の都合からでは無論ない。理由は下の如くである。


 
 

続きを読む

『思い出す8月31日』・・・その3 橘大隊長 (静岡新聞記事)

 副題・ 軍神・壮烈な最後  人望のあった大隊長
 昭和33年8月30日 静岡新聞夕刊

静岡新聞


 もちろん、橘中佐のお話は、内田軍曹から始まります。また、村松少尉、下村 元大将のお話も貴重です。


 タイプしていて・・・結構きついです。まあ、首山堡を攻めるよりははるかに楽ですが、農作業と兼任はやはりつらい・・・。


 文字ばっかりです。

続きを読む

静岡県護国神社遺品館を観る(11年式軽機関銃)

 ショーケースの中に収められています。以前も何度か撮影しましたが(○○年前)、いつもフラッシュが邪魔になり素人の悲しさを噛締めておりました。

 今回はフラッシュを焚かないように撮影をすることに気が付きました。もちろん昔と違いデジカメです。フイルムではありません。(当時のカメラは高性能のニコン社製・・・素人には手に余る)


 こちらがその軽機関銃です。(一見鉄くずに見えますが)

11年式軽機関銃


 日本が初めて開発した軽機関銃です。大将11年正式採用。開発者は南部麒次郎中将です。

 ちょっと奥にあるものが、30年式銃剣です。

 両者とも、レイテ島で泉遺骨収集団により発見されました。

続きを読む

静岡板妻駐屯地にある『橘中佐像』

 もう時期、8月31日がやってまいります。

 静岡で昭和52年8月に静岡歩兵34連隊の後継に当ります、自衛隊普通科34連隊に県内在住の彫刻家堤達男氏の手による銅像が建立されました。また、県内勇士の遺品など、2千点に及ぶ資料が展示された郷土資料館があり、部内外者に開放しているしている事が『静岡歩兵34連隊史』き記載されておりました。(昭和54年3月1日発行)
 また、橘連隊の伝統を守るべく、隊章も当時のデザインを継承し、首山堡陥落の8月31日には橘祭を行っている事も記載されておりました。

 そこで、私は31日を前にして、その事を伺いに板妻駐屯地へ友人2人と向いました。同級生せいちゃんと先輩Mさんです。共に歴史に関心があり、出身高校も同じです。まあ、気が合うんです。

 
 さて、結果はいかがでしたでしょうか。

続きを読む

『思い出す8月31日』・・・その2 関谷連隊長 (静岡新聞記事)

 副題・自ら死の突撃決行 部下に温情・関谷連隊長
 昭和33年8月29日 静岡新聞夕刊

 関谷銘次郎連隊長は、橘中佐のお名前に隠れてあまり知られていない方です。

 また、項を改めて紹介しますが、岐阜県大垣の方です。
 もちろん士族です。

 元部下の生の声が記録されております。関谷連隊長の貴重な資料であります。


基本的にはそのまま転記ですが、タイプが下手な為不要と思われる部分は(ほとんどありませんが)除きます。また、誤認による誤記や、字が判別しない場合○○とします、御容赦ください。

続きを読む

『思い出す8月31日』・・・その1 (静岡新聞記事)

 副題・ 残る岳南勇士の魂 軍歌の白眉“橘中佐”の歌。
 昭和33年8月28日 静岡新聞夕刊

 出席者(カッコ内は当時の階級)

 外岡彦兵衛(歩18小隊長)
 柴山 重一(第2軍参謀)
 岡本 忠雄(歩6副官)
 村松 清作(歩34小隊長)
 内田 清一(歩34大隊書記)
 白石 信明(歩18旗手)
 吉村 彰久(歩34少尉)
 楠  正吉(歩34伍長)
 
 ・下村  定元大将
 ・馬渕 逸雄元少将

 以上10名です。

 基本的にはそのまま転記ですが、タイプが下手な為不要と思われる部分は(ほとんどありませんが)除きます。また、誤認による誤記や、字が判別しない場合○○とします、御容赦ください。

続きを読む

首山堡激戦の勇士を囲む座談会・・・静岡新聞記事

 この座談会は、『思い起こす8月31日』と題しまして昭和33年8月28日~9月1日の5日間連載された記事です。静岡県立図書館のマイクリフィルムからコピーしてきましたが・・・画像が悪く、写真は黒ずみ文字はかすれて判別しにくいものもあります。(もう少しきれいに撮れないものか)


 どうせ一般の目に触れる事が無い記事ですが。首山堡の勇者の話を聞くことは無駄にはならないと思いますので紹介します。


 この座談会は、市川紀元二像の除幕式に合わせて市民の関心を高める為に企画されました。

 昔は8月の戦争の話は、この首山堡(遼陽)の戦いのことだったようです。現在は・・・言うまでも無く敗戦記です。


 さて、この記録だけではありませんが、この首山堡の戦いで高名な方(私が知る方ですが)を観てみますと面白い事がわかります。

続きを読む

静岡県護国神社遺品館を観る(内田軍曹の手紙)

 8月9日に静岡県護国神社の遺品館を見学した時、

 『・・・・む!』

 とした、展示品がありました。これです。

内田軍曹の手紙


 勿論昔からありましたがコピーです。橘大隊長の最後が記録されております。

 私は昔の字が読めないので(内田軍曹のお名前は知識にありましたが)、よく観ないで通り過ぎていました。もちろん現在もこの字は読めません。しかし、この文と同じものを目にした記憶があります。


 場所は、長崎橘中佐の記念館です。

続きを読む

輝く静岡の先人展開催中・・・選考基準に一言

 県立中央図書館で資料調査に行きましたらこのポスターを目にしました。


輝く静岡の先人展


 8月20日までグランシップにて開催されるようです。入場料300円です。


 輝く静岡の先人と題した小冊子も製作されております。

 ただ、この小冊子に記録される先人はには、ゆかりの施設(生家、資料館、記念碑)が無ければ選ばれません。

 また、近代以降における戦争で業績がある人物も選考の対象になりません。


 ・・・・つまり、関谷連隊長、橘大隊長、市川紀元二中尉は、最初から対象となっていないわけです。私なら田上連隊長、海軍では木村昌福中将(キスカ島撤退作戦、礼号作戦)、佐藤康夫中将(ビスマルク海海戦にて戦死)も選考に入れますがね。(・・・軍国主義ですか?)。

続きを読む

静岡県護国神社に現存する市川紀元二像の歴史(その2)

 東京大学当局から厄介者扱い(そのように扱われていました。時の総長は小野塚 喜平次。新潟出身の政治学者です)されていました市川紀元二像ですが転機が訪れました。


 共に首山堡で戦った上官(戦友と呼んだほうがよいのかもしれませんが)松井石根大将の言によるところです。

 昭和10年日露戦役30周年、東京日日新聞座談会における松井大将の話

 「この間も帝大工学部の催しで中尉のお祭りをやったので自分も参加したが、もう当時の人達は学生は勿論職員も中尉の事を知らない人が多かった。それで僕が憤慨して当時の事情を話した事もあったが、特に遺憾に思ったのは銅像の軍刀が折れていることである。誰か子供がいたずらしてとったものらしいがこれはどうかして直してもらいたい希望している」。

 その後間もなく破損は修繕されました。このことについては「電気乃友」昭和10年4月号の市川中尉30年祭(3月7日)の記事の中に渋沢元治博士の話が載っています。(渋沢元治博士は、昭和33年8月31日 静岡県護国神社での除幕式に参加されております)

 

続きを読む

静岡県護国神社に現存する市川紀元二像の歴史

 市川紀元二像は二つありました。
 一つは、東京大学工科大学の方々を中心に建立された、静岡県護国神社に現存するもの。もう一つは、市川中尉の地元磐田にて有志の方が建立されたものです。こちらは戦時中に供出されました。


 私、早速『市川紀元二中尉伝』横山 英著 を古本屋より求めまして調べてみました。その本を参考に東大にて建立されました市川紀元二像についての記録を紹介します。この『市川紀元二中尉伝』は静岡県立図書館にあります。


 市川紀元二


  東京大学工学部電気工学科主任教授 山下英男祝辞では分かりませんでしたが、東京大学にあった時から市川紀元二像いろいろと波風があったようです。(戦前の話です)

 この市川紀元二像を建立し守ってくださった方のお名前が分かるのであえて紹介します。

続きを読む

静岡県護国神社遺品館を観る・・・その1  2011.08.11

 静岡県護国神社に行きましたら必ず寄る所は遺品館です。(8月9日)

 高校の時はよく学校帰りに寄りました。意味はそれほど分かりませんでしたが展示品(特に兵器)をよーく拝見させていただきました。

 あれから幾年、静岡連隊がどこで戦い、将兵がどのような最期を遂げてきたか、資料より知るところとなり展示品の観る目が変わってきました。


 展示品は当時とあまり変わっていません。ただ観る人だけが成長しました。


遺品館パンフレット


 最初に紹介する展示品は、帝国陸軍が誇る世界最優秀の連発式狙撃銃『九二式重機関銃』です。

続きを読む

市川紀元二像除幕式 昭和33年8月31日 新聞記事より

 静岡新聞昭和33年9月1日の朝刊に市川紀元二中尉の銅像除幕式の記事が載っていました。

 この8月31日を挟んだ1週間、当時を知る方の座談会記事が掲載されました。あの、橘中佐を看取られた内田軍曹が健在でした!・・・驚きです。項を改めて紹介します。(とにかく長いんです)

  
 こちらがその記事です。

静岡新聞


 なぜ、8月31日に除幕式を行うかといいますと、この日が遼陽の会戦最大の激戦でありました首山堡の戦いを征した日であります。もちろん、首山堡一番乗りの快挙を成し遂げられた方は市川紀元二少尉(当時)であります。

続きを読む

日露戦争の英雄 市川紀元二中尉の銅像について(その2)  2011.08.09

 日露戦争の英雄の銅像も多くは戦時中金属物供出で撤去されました。

 静岡にありました、関谷連隊長、橘大隊長の銅像も供出されました。長崎にある銅像は、地元の方が砂浜に埋め守ってくれた為に現存しています。静岡の場合は、連隊本部にありましたから・・・守りようがありません。市川紀元二中尉の銅像がもう1つ掛川のほうにあったことが別宮先生の著書に書いてありましたが、やはり駅前にあったため供出されました。

 
 この市川紀元二像は東大の構内にあり工学部の教授方を中心に守ってくれていました。終戦後もGHQより撤去されないよう職員一同この像を隠し守り抜いたとあります。

市川紀元二


 東京大学工学部電気工学科主任教授 山下英男祝辞 を紹介します。

続きを読む

日露戦争の英雄 市川紀元二中尉の銅像について  2011.08.09

 高校の時は毎日この銅像の前を通っていました。

 もちろんこの銅像が日露戦争に関係があり何か功績を立てた方だとは思いましたが、紹介文も無いので詳しく分からないままでした。

 祖父より聞いていた話は、もちろん関谷連隊長と橘大隊長の話です。市川紀元二中尉の話は聞いた事がありませんでした。

 
 私に、この市川紀元二中尉の功績を紹介してくれた方は別宮暖朗先生です。別宮先生の著書『日露戦争陸戦』と先生のHP第一次世界大戦で紹介してくれています。
 リンクを張りました。

市川紀元二中尉

 本日撮影しました市川紀元二中尉の銅像です。(磐田市中泉の御出身です)

市川紀元二中尉の銅像


 詳細に説明していきます。

続きを読む

静岡県護国神社 と市川紀元二中尉  2011.08.09

 夏になりますと盛んになるのが、怪談話と戦争話です。

 私は年寄に可愛がられて育ちましてから戦争の話は季節を問いません。

 本日紹介します護国神社と市川紀元二中尉の銅像は、私が高校の頃の通学路にあり毎日目にしておりました。護国神社には遺品館があり無料で見学できるので学校帰りにニコニコ社会科見学をしておりました。おかげで結構目が肥えてきました。


 先ずは護国神社の風景を紹介してから市川紀元二中尉の銅像を調べた限り紹介します。


 護国神社


 敷地の中は散歩に最適です。

続きを読む

8月6日  遺伝学者 増井清博士命日

 今日8月6日は、増井清博士の30回目の命日です。

 増井博士は明治20年生まれ、私の曽祖父と同じ世代です。

 博士について、私が祖父より聞いた話はあまり多くはありません。造り酒屋“満寿一”さんの出である事。鶏の初生雛鑑別を発見した人。鶏の研究で非常に有名な方であること。・・・このくらいです。

 博士の記録もこちらには何も無いので、昨年より昔の専門誌、論文等で調査を始めています。


 今日は、博士の命日に初めて参拝します。(博士の命日を知ったのは昨年です・・)

 下の写真はお盆の時(7月16日)、可愛い甥と姪を連れて行きました。(もちろん参拝の順番は最初に満寿一さんからです)

増井博士墓前


 この日は非常に暑い日で二人とも真っ赤になって汗をだらだらかいていました。そのため帽子は取らせませんでしたが、博士も許してくれるでしょう。

続きを読む

マクワウリの品種分類とF1に関する研究

 当家でも、マクワウリの収穫が始まりました。

 マクワウリについて詳しく書かれた論文を紹介します。

 園芸試験場報告D 第2号 『マクワウリの品種分類とF1に関する研究』
 勝又広太郎・安井英夫(1964)  農林省園芸試験場久留米支場の報告です。

 先日(3月ですが)は確かアグロペディアで入手できたのですが、今は検索しても入手できないようです。(・・・なぜ公の試験場の研究報告が簡単に入手できないのか、いつもながら幼稚な情報統制には腹が立ちます)


 こちらです
マクワウリの品種分類とF1に関する研究


 結構なページ数です。詳しく書かれています。

 先ずは、緒言のマクワウリの歴史について抜書きします。

 

続きを読む

鶏のひなの鑑別・・・『初生雛雌雄鑑別の研究』 論文3 最後

 タイプがあまりうまくないので。

 ようやく最後の総括(考察)の部分です。岩田氏の伝書鳩の鑑別の概略についても紹介します。


 増井博士らが鶏の鑑別法発表する以前に、岩田 巌氏が「伝書鳩の雌雄の鑑定法」を発表していました。

 
 家鴨(アヒル)のオスにも交尾器があることが、エレンベルゲル氏の論文で知られていたようです。


雄鶏における(退化)交尾器官並びに初生雛の雌雄の鑑別について


 

続きを読む

鶏のひなの鑑別・・・『初生雛雌雄鑑別の研究』 論文2

 ちょっと長いので二つに分けました。

 こちらで紹介するものは、
 3.初生雛の鑑別について
 (1)従来雛の雌雄区別の参考とせる事項
 (2)我々の雌雄鑑別法

 総括

 以上4項目です。こちらは雌雄鑑別に就いて説明されていますから紹介します。(・・・・長過ぎるので又項を分けます。)


 このような論文を調べていて、一般向けの本で書かれている内容に結構間違いがありことが分かりました。これは、一次資料を確認していない事が原因でしょう。いくら関係者が書いたものでも、誤認、誤記がつきものでありますから。(歴史の本ではいくらでもそういう事例があります。特に戦争関係のものは・・・)。

 ・・・・確認しながら整理していますが、やはり誤認があります。分かり次第修正していきます。

雄鶏における(退化)交尾器官並びに初生雛の雌雄の鑑別について

 さて、それでは紹介します。

続きを読む

鶏のひなの鑑別・・・『初生雛雌雄鑑別の研究』 論文1

 初生雛鑑別の研究・・・鶏のヒナの雄雌の判別(やさしく言うとこんな感じでしょうか)

 昭和12年に発行された、増井清著『初生雛雌雄鑑別の研究』より抜書きします。

 雌雄鑑別の研究は大正10年著者が農林省畜産試験場において、家畜家禽の遺伝及び繁殖に関する事項の研究を委託された時に、橋本重郎及び小川敏夫の両氏と共に着手したのである。小川氏は研究の中途において朝鮮に転任され、大野勇氏が代わって助手としこの研究を助力されることになった。大正14年第1報として初生雛雌雄鑑別の理論と応用についてその一端を発表することが出来た。この報告は現今の研究応用共に完成に近づいた時から観れば、鑑別理論の大要と応用の可能とを説明したに過ぎなかったけれども、雌雄鑑別技術の基礎は既に第1報によって確立されたのである。


 増井博士が雌雄鑑別の研究されたのが大正10年。第1報の論文が完成したのが大正13年。発表されたのが大正14年でありますから、間違いなく第1回日本畜産学会の大会(大正14年4月1日 場所は青山会館)です。


 この研究は、明治維新以来欧米列強の後塵を拝してきた日本の畜産学界が、初めて世界に放った一発でした。


 これが第1報のコピーです。

雄鶏における(退化)交尾器官並びに初生雛の雌雄の鑑別について


 古い字体の漢字とカタカナの論文です。意味を変えないように注意しながら今の字体、言葉で書きます。(上手に出来ませんがご了承ください)

 図表を含めて11ページです。(長いので二つに分け、一部略します)

続きを読む

日本畜産学会 設立

 大正13年(1924)6月、日本畜産学会が設立されました。

 会長は岩住良治博士。会員は約180名です。

 このときの役員の名簿です。コピーですが・・・。

第1回日本畜産学会報


 この時増井博士は37歳です。鈴木幸三博士のお名前もあります。鈴木博士は庶務のほうを担当されたようです。学会報の編集、発送は増井博士の研究室で行われていました。
 ただ、会員数が180名しかなく資金の余裕もありませんでした。(会費は年6円)最初の学会報発行は増井博士と鈴木博士が経費を負担されました。鈴木博士はその後もなにやかや負担をされていたようです。(会計の問題は戦後まで尾を引きました・・・)
 昭和7年に事務所を東大に移すまで畜産試験場で実務が行われていました。


 さて、この日本畜産学会報第一巻は大正13年9月10日に発行されました。第1回の大会は翌14年4月1日、青山会館にて行われました。

 この記念すべき第1巻の目次です。

続きを読む

日本畜産学会設立前夜

 日本畜産界が世界に誇る『初生雛鑑別技術』。この技術の基礎になる論文『雄鶏に於ける退化交尾器並びに初生雛の雌雄の鑑別に就いて』(増井・橋本・大野)が発表された舞台が、第一回の日本畜産学会であります。


 この日本畜産学会の設立に関して以下の資料からまとめていきます。当時の畜産界の状況、獣医学徒と畜産学徒の対立・・・、今では考えられない事、今でも十分ありえることなど、なかなか面白い事が記載されております。

 参考にする資料は、
 日本畜産学会誌 30周年記念号、50周年記念号。
 『畜産昔話』 (岩住、石崎共著、昭和27年)
 『飼料に明け暮れ50年』 (西川哲三郎著、昭和50年)

 
 増井博士は、著書、(雑誌)記事の類では畜産学会についてお書きになっておられなかったので、漫然と私は昔からあったものだと思っておりました。(昭和49年の座談会は除く)研究発表する場を作るにも博士ずいぶん苦労されております。


 日本畜産学会設立の中心人物は、鈴木幸三農学博士(鈴木梅太郎門下)と増井清獣医学博士のお二方です。


 

続きを読む

日本遺伝学会第1回大会・・・寺尾博博士

 先日、『竹崎嘉徳先生の思い出』と題した本を購入しました。

 目的は、寺尾博博士について何かかかれていないかと考えましたからです。今までの調査で竹崎博士と寺尾博士は非常に近い中であると見えました。


 私が見出しました寺尾博士唯一の追悼記事は『採集と飼育』の大島廣博士の記事です。(大島博士は寺尾博士の同級生)

 その記事の中に、竹崎さんの言葉が載っていました。抜書きします。
 
 先頃、松枝の農大の学長を辞めて京都に帰ってきた竹崎嘉徳君を訪ねた。これも同じ時代、同じ寄宿寮の飯を食った仲間の一人である。しんみりと寺尾君の訃を惜しんで語り合ったのだが、そのとき竹崎君が例の調子で、
 “まともな死に方をする筈のないあいつが、あのような幸福な大往生を遂げたことは、どうしても腑に落ちない”
 と、意味深長な事を言った。私の知らないepisodeが農学者同士の間に知られているものとみられる。

 以上です。

 私はこのepisodeを追っているわけです。

 さて、その竹崎嘉徳先生の思い出に写真がありました。日本遺伝学会第1回大会の時の集合写真です。貴重です。寺尾先生がしっかりと写っております。

続きを読む

遺伝学者  増井清博士

 今年の8月6日で、増井清博士が逝去されてちょうど30年になります。

 この小坂はもちろん長田地域(昔、この地域は安倍郡長田村と呼ばれていました)、全体でも増井博士に続く大学者は輩出しておりません。


 増井博士についての記録はこちらには全く残されていないので、昨年の7月より博士に関する調査を始めました。丁度1年になります。

 
 今月、静岡ではお盆になります。博士もこちら世界に帰ってこられるので、私が調べた範囲ですが増井清博士の記録を紹介していきます。

 
 写真が入手できなかったのでコピーより写しました。

増井清

 
 増井博士の年表を作りましたので参考までに紹介します。


 


 

続きを読む

寺尾博著 『農の理法』より 品種の相対性

 寺尾博博士が亡くなられて今月(7月)の16日でちょうど50年になります。

 博士について調べておりますと、なぜ今まで寺尾博士の話がこの静岡で聞かれないのか不思議に思います。例えていうならば、『遠州に鈴木梅太郎あれば、駿河に寺尾博あり』と言われてもおかしくはありません。そのくらいの研究、業績をあげられた方であります。寺尾博士のお仕事は、『農の理法』 序にて簡単に記載しておきました。下のリンクからどうぞ。
寺尾博著 『農の理法』 序

 農の理法


 さて、この寺尾博士“品種の相対性”という言葉を残されております。博士が寄稿されました雑誌(農業及園芸等)にもいろいろな書き方でこの“品種の相対性”について説明されてました。
 
 『最高の品種は存在しない。あるのはその場所、その時期に適した品種があるだけだ』

 含蓄のある言葉です。私はこの言葉の応援を受けて現在素人育種を行っているわけでもあります。


 さて抜書きします。


 

続きを読む

スイカの甘さ・・・・。

 スイカの甘さの表現の仕方・・・・。

 普通は甘いか、甘くないか。おいしいか、まずいか。だけです。

 さすがはスイカの権威!スイカの甘さをうまく表現してくれています。

 神田武著 『西瓜の栽培技術』からです。


西瓜の栽培技術


p4
 (前略) 味から言えば従来の品種がシロシタ(甘味)ならば、新大和系統はキューバ糖、旭大和は白砂糖、大和クリームは氷砂糖の甘さと評すべきであろう。各種とも一長一短でそれぞれの風味をもっている。 (後略)


 これは、品種紹介の前文でした。同級生K君にこのコピーを渡したところ、えらくこの表現を気に入り、旭大和、大和クリームにほれ込んでしまいました。

 昨年までは、3倍体!、3倍体!と、3倍体種子(小袋1つ千円くらい)に莫大な投資をしてきたK君が打って変わって在来品種です。こちらの種子の価格は小袋200円くらいです。

 現在2人でこの在来品種(固定品種)よりF1を作出する予定です。私のほうの組み合わせはまた紹介します。最初の予定ではもう収穫できて、その種を播種する予定でした。(残念・・・収穫まで1ヶ月必要です)


スイカ販売ページへ


記事が面白い、ためになったと思われましたら下のバナー何れかをクリックしてください。(純粋な興味(調査)で行っておりますので官民問わずお願いします。今後の参考にさせていただきます。もちろんコメントが一番有難いです。)

にほんブログ村 静岡(市)情報
にほんブログ村 偉人・歴史上の人物
にほんブログ村 生物学・生物科学

スイカの摘心・整枝のやり方

 スイカの栽培で多くの方が頭を悩ませるものは、スイカの植栽距離(株間と畝幅)と摘心、整枝ではないでしょうか。(・・・収穫は別)


 今回昔の資料を調べていて面白い事が書いてありました。

 神田武著『西瓜の栽培技術』昭和24年初版発行。より抜書きして紹介させていただきます。

西瓜の栽培技術


 神田種苗さんを知ったのはこの本からです。もちろん購入しました。国立国会図書館にはあるようです。静岡県立図書館、大学図書館にはありません。もしかしたらタキイ種苗さんにはあるかもしれません。


 今回は著者の紹介がありませんからそのまま本題に。

続きを読む

長崎見聞録 橘神社

 時間通り長崎駅に到着しました。

 長崎といえばハイカラなイメージがあります。しかし、来てみるとなんだか静岡と同じような感じがします。山が近いからそのような気がするのでしょうか。(静岡の中心の話ではありません。あくまで私の住んでいる小坂と比較してです)


 お迎えにきてくださる間その辺をきょろきょろします。(どこいってもおのぼりさんです)


 車で橘神社、島原方面を案内していただきます。


IMG_1962.11.05.04.JPG


 橘周太大隊長の像です。戦前より現存する唯一の銅像です。

 静岡の駿府城に、同じく首山堡で戦死された関谷銘次郎連隊長の銅像と共に橘大隊長の像もありましたが、戦時中金属の供出で現在はありません。

 お墓はご両者とも静岡市葵区沓谷(くつのや)の旧陸軍墓地にあります。(ただ、地元の方の話によると橘大隊長のお骨は遺族の方が長崎に持っていかれたそうです)

 

続きを読む

古書探求

 図書館や書店など書架に本が並んでいる光景を見るだけでうきうきした気分になる人が・・・・私以外に、幾人かおいでになると思います。

 中でも表紙が黄ばんでぼろぼろになった古書は私の気分を高揚させます。(別に私は変態ではありません)


古書

 
 ここは、私がよく資料調べに使わせていただいている某県立大学の某文庫です。県民には親切なことに平日夜10時まで開館。資料も3冊まで貸し出してくれます。書庫も自由に入れ、私にはパラダイスであります。(できれば5冊くらい貸してください)

 
 近くの県立図書館も私の楽園ですが、某国立大学は名前の割に蔵書が少ない、図書館が暗い、汚い、調べにくい。

 ・・・・・・・・。勉強されている方々は頭がよいから本は要らないらしいですな。それとも、ネット頼みか?

続きを読む